第1章:理不尽な世界に囚われて
2. 児童相談所の壁
次の日の朝、私はソワソワしながら家を出た。
行き先は児童相談所。
「子どもを保護するところ」という響きだけ聞くと、なんとなく優しそうな場所のように思えるけど、私にとってはまるで役所とか警察に呼び出されたような気分だった。
正直なところ、私はまだ納得していない。
なぜ突然、何の前触れもなく、結菜が連れて行かれたのか。
私はそんなにダメな母親だったのか?
そんなモヤモヤを抱えながら、児童相談所の建物の前に立つ。
灰色の壁に、でかでかとした看板。
入口をくぐると、なんだか妙に静かで、ちょっと緊張する。
受付の女性に名前を伝えると、奥の会議室に案内された。
少し待つと、スーツを着た女性が入ってきた。
年齢は私と同じくらいか、少し下かもしれない。
「結菜さんのお母さんですね。お時間いただき、ありがとうございます」
私は慌てて背筋を伸ばした。
「いえ、こちらこそ……」
「では、まず今回の経緯について説明しますね」
私は心の中で、「そうそう、それそれ! それを聞きたいんです!」と叫んだ。
「まず、近隣の住民の方から通報がありました」
「通報……」
「はい。結菜さんが、夜遅くまで家にひとりでいることが多く、不安だという声が寄せられたんです」
……なんだそれ?
私は思わず首をかしげた。
夜遅くまでひとりでいるって、別に普通のことじゃない?
結菜はもう中学生だし、しっかりしてるし、何も問題ないはず。
「でも、それってそんなに大ごとになることですか?」
「お母さん、確かに中学生になるとある程度の自立はできますが、児童虐待防止法の観点からも、長時間の放置は問題視されることがあるんです」
「虐待!?」
私の声がちょっと大きくなった。
え、待って待って。私は虐待なんかしてない!
ご飯もちゃんと用意してたし、学校だって普通に行かせてるし、困ってることがあればちゃんと聞いてた。
「私は娘を虐待なんてしてません!」
「ええ、それは理解しています。ただ、子どもが一人でいる状況が続くことは、心のケアの面でも注意が必要なんです」
私は頭がクラクラした。
そんなこと言われても、仕事があるんだから仕方がないじゃないか。
私が働かなかったら、家賃も光熱費も払えないし、ご飯だって食べられない。
「じゃあ、シングルマザーはどうしたらいいんですか?」
「それについては、支援制度もありますし……」
私はため息をついた。
いやいや、そんなこと言われたって、結局現実はそんなに甘くない。
行政の支援なんて、手続きが面倒だし、条件も厳しいし、何よりすぐに助けてくれるわけじゃない。
私は結菜に会いたかった。
それだけなのに、話がどんどんややこしくなっていく。
「すみません、結菜には会えますか?」
女性は少し言葉を選ぶようにしてから、こう言った。
「今の段階では、まだ難しいですね」
……は?
「どうしてですか?」
「結菜さんが今、どういう気持ちなのか、もう少し見守る必要があるんです」
私は思わず目を見開いた。
いやいや、結菜はただ突然連れてこられて、混乱してるだけじゃないの?
なんでそんなことを言われなきゃいけないの?
私はグッとこぶしを握りしめた。
「……私は、母親です。結菜のことは、誰よりもわかってるつもりです」
女性は少し表情を柔らかくして、こう言った。
「お母さんの気持ちはわかります。でも、今はまず、落ち着いて話し合いましょう」
私は言いたいことをぐっと飲み込んだ。
怒っても、何も変わらない。
ここで感情的になったら、「やっぱりこの母親は問題がある」と思われてしまうかもしれない。
私は深呼吸して、ゆっくりとこう言った。
「……どうしたら、結菜に会えますか?」
女性は静かに頷いた。
「まずは、お母さんの生活状況や育児の環境について、お話を聞かせてください」
私は心の中で、「まるで面接みたいだな」と思いながら、深く椅子に座り直した。
結菜を取り戻すためなら、どんな話でもする。
どんなことでも乗り越えてみせる。
理不尽な世界に負けてたまるか。
私は覚悟を決めた。