第2章:不思議なメッセージ
10. 現実を観る者になる
最近、私は自分のことを「映画の観客」だと思うようにしている。
最初は、タフティメソッドの「スクリーンの意識を持つ」なんて話を聞いても、正直ピンとこなかった。
「そんなことで現実が変わるわけない」と思っていたし、結菜を取り戻せるならとっくに戻ってきてるはずだ、と思っていた。
でも、やってみると、少しずつ感覚が変わってきた。
私は今まで、現実の中で必死にもがく登場人物だった。
「結菜を取り戻したい!」と焦り、
「どうしてこんなことになったの?」と嘆き、
「世の中は理不尽だ!」と怒る。
でも、それは映画の中のキャラクターが、
「なんでこんなに不幸な脚本なんだよ!」って叫んでるのと同じなのだ。
キャラクターがどれだけ苦しんでも、観客がスクリーンの外から眺めているだけなら、
映画のストーリー自体は変わらない。
でも、もし観客がストーリーを変えられるとしたら?
私は、スマホのメモにこう書いた。
「私は、現実の観客になる」
この意識を持つだけで、本当に世界の見え方が変わってくるのだろうか。
半信半疑ながらも、私は日常の中で試してみることにした。
***
その日、私は仕事の帰りにスーパーに寄った。
カゴに野菜と豆腐を入れながら、「今日は何を作ろうか」と考えていた。
結菜がいたら、一緒に鍋でも作るのになぁ……と、少しセンチメンタルになる。
いつもなら、ここでため息をついて終わりだった。
でも、今日は違う。
「観客の意識を持つ」練習をしてみようと思った。
まず、スーパーの自動ドアを出る前に、一瞬立ち止まる。
そして、自分の心の中でこうつぶやいた。
「私は今、この世界の映画を観ている」
目の前の景色が、急に遠くなった気がした。
レジに並ぶ人たち、お会計を終えて足早に帰る人、
駐車場で子どもを抱えているお母さん。
いつもなら「当たり前」と思っていた風景が、
まるで映画のワンシーンみたいに見えてきた。
私は、ただ観ている。
登場人物じゃなくて、観客として、スクリーンの外からこの現実を観ている。
そう思った瞬間、気持ちがスーッと軽くなった。
「おもしろい……」
私は思わず笑ってしまった。
結菜がいない現実は悲しいけれど、
それを「悲しい映画」として観ている自分がいると思うと、
なんだか冷静になれる。
そして、こう思った。
「この映画のストーリー、そろそろ変えようかな」
***
家に帰ると、スマホに通知が来ていた。
児童相談所からだった。
「明日、お話をしたいのですが、ご都合はいかがでしょうか?」
私は画面をじっと見つめた。
この前までは、「しばらく様子を見ましょう」としか言われなかったのに、
急に「話をしたい」と言われたのは、もしかして何か動きがあるのかもしれない。
普通なら、ここで「何を話すつもりなんだろう?」と不安になるところだ。
でも、今日は違った。
私は、スマホを握りしめながら、心の中でこうつぶやいた。
「これは、私が選んだストーリーの続きだ」
だって、私は決めたのだ。
「結菜と一緒に暮らす未来」を選ぶと。
だから、これはそのストーリーの途中であり、
最終的に私たちが再会することは、もう決まっているのだ。
私はふぅっと息を吐き、返信を打った。
「明日、伺います」
明日、どんな話をされるのかはわからない。
でも、私はもう以前のように「不安の中でもがくキャラクター」ではない。
私は、この世界を観る者なのだから。
***
その夜、布団の中で目を閉じながら、私は思った。
「もしも、もっと早くこのことを知っていたら、
これまでの人生はどれくらい変わっていただろう?」
仕事で怒られて落ち込んでいたとき。
結菜とケンカして、泣きたくなったとき。
離婚して、人生のどん底だと思ったとき。
全部、登場人物としての私は必死だったけれど、
観客としての私は、もっと冷静にストーリーを変えられたのかもしれない。
「ま、今からでも遅くないか」
そう思うと、不思議と安心した。
私は、観る者になる。
そして、観る映画を、自分で選ぶ。
「この映画、最後はハッピーエンドだから、大丈夫」
そう信じて、私は目を閉じた。